2016年06月15日

世の中万事、諸行無常

16時から近くの蕎麦屋で会食なのでもう外で待機中です。親爺さんが二次会誘いの魔の手から何とか逃げてくれるのを祈ってます。
14時過ぎに水戸様の診察と献血に行っている間に守衛さん達がいなくなってました。お別れの挨拶はその前に済ませてたので特に心残りは無いですが…。正面玄関の受付台は既に機械に置き換わってました。舛添さんも辞職決まったし、生きていても諸行無常です。控室が兼用で、ドアとロッカーの頻繁な開け閉めにほとほと参ってましたが、連れが「その内居なくなるよ。」と言ってた通りになりました。
ちなみに今回水戸様の注入軟膏は2ヶ月分貰いました。秋まで持たせようと思います。
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2014年11月12日

阿倍政権の失敗とは

阿倍政権の失敗は、憲法第九条の解釈変更による集団的自衛権行使容認と、消費税増税で景気対策優先し福祉一体改革(年金財源)をなおざりにした点です。福祉改革一体の消費税増税であれば、その成否は5〜10年先に評価されるべきでしょう。本当に国民に資する政党ならば福祉改革一体必須の消費税増税敢行を主張すべきでしょう。
posted by 碌 at 09:07| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 随想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月07日

「論語」の楽しみ方

「論語」に於ける孔子の人間像を想起したい方は、中島敦の「弟子」と言う短編を読んでから、岩波文庫の「論語」を通読して頂けると、より現実的で人間臭い孔子を思い描きながら楽しめると思います。
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「仁」に繋がる教えに感謝

小学生の頃、役所(東北管区警察本部秋田県通信部)の技師だった父に連無辜之民れられて、良く日帰りのリクリェーション行きました。秋田駒ヶ岳や乳頭山の縦走など、軽登山が多かった気がします。役所のリクリェーションの他にも、春は山菜採り、初夏は渓流へ岩魚やヤマメ釣り、夏は磯や防波堤や砂浜で海釣り、秋は茸採りに連れて行って貰いました。父から教わった事は色々有ります。自然の中で遊んだらゴミは捨てずに持ち帰る。登山では間違っても下に石を投げたりしない。小さな魚は釣っても逃がす。知らない山菜や茸は採らない。ごく当たり前の事ですが、趣味と実益を兼ねたリクリェーションの中で、常識として教えて貰いました。小学校では週に一、二回道徳の授業が有り、NHKの道徳の人形劇を教材に話し合いましたが、今はどうなのでしょう。また、中学校では、秋田市近郊の大森山少年の家と言う研修施設で宿泊研修を受け、「来た時よりも美しく。」と言う習慣の教育を受けました。何れも常識と習慣として身に付いて、今も忘れず心掛けています。それらの教育の根幹は、自然に感謝しそれを大事にする、人に配慮し迷惑を掛けない、です。或る意味論語の「仁」を実践的に教えて貰ったのだと思います。

現在、世の中で残忍な犯罪が多いのは、犯罪者が幼少期に適切な道徳教育を受けられなかったのが主因でしょう。

御嶽山の噴火で被災された方々は、山や自然を愛しそれを愛でに行かれた無辜之民ですが、たまたまそこにいたと言うだけで、人間に対する地球の怒りの矛先の犠牲となって仕舞った気がしてなりません。

posted by 碌 at 13:32| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 随想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月10日

論語のすすめ

「論語」とは孔子とその弟子たちの言行録です。よく読み込むと、思想哲学的な難解な文章では無く、何と無く生活観や人間臭さを感じる親しみやすい短文の集まりです。周朝を模範とした現実的理想主義的人道的政治学・哲学・倫理学と言えるでしょう。万代の木鐸として現代まで営々とアジア各国に読み継がれてきた時代を超えたベストセラーです。私が初めてまともに出会ったのは高校の漢文の授業でです。以来事あるごとに読み返し、今では常時岩波文庫を携帯しています。元々夏目漱石が好きで、彼が漢学者である叔父の影響で漢文の素養あるということを知っていたことも影響しているでしょう。また同様の理由で中島敦も好きです。漢籍を題材とするものが多い彼の小説の中で、「弟子」には子路と孔子の出会いやその言行が人間っぽく溌剌と描かれています。
「論語」は人類必携の書として仏典や聖書と同等(私には既にそれ以上)の価値が有り、これからも不変でしょう。全編通読できるよう、小学校から高校までの国語の教育課程に入れるべきです。
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2011年03月09日

論語読みの論語知らず

論語 巻第一 為政第二者 四

吾十有五而志乎學
三十而立
四十而不惑
五十而知天命
六十而耳順
七十而從心所欲 不踰矩

電車の中でも、観光地でも適齢の者が、五、六を意識して行っているか無意識に行えているか、そのどちらも少ないです。為政者が徳治していない証左ですが、議会制民主主義国家である日本では為政者は我々によって選ばれた者です。「巧言令色鮮矣仁」、「温故知新」。万代の木鐸の言葉は決して錆びることは有りません。現代中国では廃れても
、日本では行われるべきです。
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2009年08月13日

末法澆季か

今日は電車の人身事故が何件も起きているようです。
政権交代秒読みに入り、警察と国交省他は旅客運輸事業者の取り締まり強化と、駆け込み天下りに躍起です。
今夏は異常気象が多発し、降水量も記録的です。
殺伐としております。
利己的に動くなら、陥穽に嵌まらず生き残るしか有りません。
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他に先んずらば

他に先んずらば、配慮率先垂範し、徒に他を妨ぐ可からず。
組織においても、家庭、社会生活(交通、歩行、)においても同様。
さ有らざるは徒に恨み嫉みを買うのみ。自らを顧み知る可し。
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2009年08月09日

繁華の程度

銀座、浅草、上野、錦糸町、秋葉原、新宿、渋谷。どれも私には繁華の程度が性に合いません。中央線の吉祥寺とそこから下った辺りの、緑と寺社が風景に溶け込んだ街が懐かしいです。
より慕わしいのは稲穂揺れる田園と万緑の山河ですが…。
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2009年02月24日

独白 おどはんどおがはんさ鎮魂歌

二昔前、
いっつもやってあった夫婦喧嘩の果でに
何ぼが寒みがっただが、飽田の野づらに彷徨って寝でまって、
思ってもいねがっども逝ってまったおどはん。

おどはんの残゛してけだもので、
おっとし(一昨年前)まで、
まあまあ悠々自適で、
まあまあ好ぎに生ぎで、癌わがねくて、
わがったっけ三ヶ月しかいぎいねがったおがはん。

あっちゃ行ってながよぐ暮らしてるが?
春なれば蕨でもアイッコでもシドゲでもタケノゴでも蕗゛っこでも山さ取に行って、
五月゛てば川で岩魚でも山女でも釣って、
夏゛どが秋゛だば鱚でも鯊でも鰈でも海で釣って、
潟で鮒っこでも釣って、
まだ山さ行って、アミッコだのハヅダゲだのナメッコだの採って…。
何と年金だげでも最高に贅沢゛だねが…。
何もずっと喧嘩してねくてもいがったなぁ…。
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2009年02月22日

独白 母の死、父の死

母は、一昨年の8月に胃癌が発覚し組合病院に入院し、完全介護だからと安心していたら11月に入って容態が急に悪化し、半ば過ぎに亡くなってしまいました。
借りた金も有ったし、もう少し長生きをして欲しかったです。女性向け洋服の裁縫が得意で、知り合いや親戚の叔母さん方のスーツやワンピースを仕立てては代金を頂き生活の足しにして家計を助けてくれていました。病院の介護や布団屋さんのパートなどもしてくれてました。
父は東北管区警察本部秋田県通信部の職員(国家公務員)でしたが、キャリアでは無かったのでそれほど給料は良くなかったのです。父は海軍の通信兵で沖縄戦に向かった特攻の生き残りで、復員後は市電の運転手を経て警察庁に入ったのだそうです。よくモールス信号の大会に行っては表彰状をもらって来ていました。
父と母は見合い結婚です。共に兄弟は多く大家族でした。どちらかと言えば父の実家の方が裕福でお祖父さんがミシンの訪問販売などで財産を築き、田畑を多く持っていました。お祖父さんは私が生まれる前に亡くなりました。欲の無い父が相続したのは生前に貰った実家だけです。多くは父の直ぐ下の弟が本家と共に継ぎ、農業は片手間で遺産を切り崩して今に至っています。本家はとても広く大きい家で、外車とハーレーを何台も所有しています。
父と母は、私が小学生の頃から喧嘩が絶えませんでした。小さい頃は母が怒って口汚く罵ると父が物を投げ建具を壊した上手を出して顔を腫らした母と私達が逃げるというものでしたが、私が高校大学と進むに従って母のほうが優勢となり、散々罵った挙句物を投げてガラスを割る、新築の廊下のフローリングに穴が空くほど踏み鳴らすなどすると、たまらずに父は車で外に出て行きました。母は普段から饒舌な方で、父は寡黙、と言うよりは口下手でした。今から考えると、喧嘩の原因は主に母の被害妄想的な思い込みが多かった気がします。それほど生活に余裕が無く必死で、気分転換をするひまも無かったのだと思います。口下手な父は、そんな母をなだめる術を持ち合わせていませんでした。
アートを退職して翌昭和62年に運送会社に就職した後、私は厚木の新しい支店の集配ドライバーとして転勤しました。喧嘩の多い家から出たかったのですが、いずれは秋田に戻る積りでした。その年の12月の初めの吹雪の夜、父が母との喧嘩の後泥酔して歩いて家を出て行方不明になりました。母から連絡を受けた私と兄は実家に車を飛ばして帰り、父の兄弟と共に釣りや山菜取りによく行った山を中心に車で探し回りました。父は若い頃から良く山に篭ることがありました。失踪の翌日から寒波は緩み、雪は消えましたが、日が経つにつれ不安は募りました。4日目位だったかと思います、創作中の昼過ぎに実家に連絡をしたら見つかったとの話を聞きました。急いで実家に戻ったところ親戚の兄さんから、実家の裏手の田圃沿いの県道の側溝で遺体となって発見され、叔父さんと母が警察署に引き取りに行っていると聞かされました。二人が余りに懸命に探しているので、最初に亡くなっていたとは言えなかったのだそうです。兄と私は嗚咽を漏らしながら母と亡くなった父を待ちました。夕方前に自宅に戻った父はまるで寝ているようでした。泥酔して吹雪の中眠り込んだようです。家を出て行くときは激昂して出て行った筈ですが、せめてその瞬間には気持ち良く逝ったのだと、兄と私は話し納得しようとしました。
原因は兎も角、やはり不幸な事故であったとしか言いようが有りませんでした。
その兄とは、私が母から大金(300万ほど)を借りた事が発覚してから殴り合い(私は余り抵抗せず唇が裂けたまま電車で帰京しました。)の喧嘩をした後は、母の入院まで音信不通でした。
母の死 報恩
posted by 碌 at 22:50| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 随想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

独白 父との釣行、旭川、岩見川

旭川は、秋田市中心部の繁華街で川反を貫流する全長30〜40km程の清流です。川反の向かい側の歩道からは鯉や鮠など様々な魚の群泳する姿が見られます。
川反から添川くらいまでが鯉や鮒、鮠などの生息域、添川から藤倉までが鮠、虹鱒、山女、鮎の生息域、藤倉から仁別、最上流部までが、鮠、虹鱒、山女、岩魚の生息域です。昔も今も特に漁協で稚魚の放流をしていると言う話は聞いたことがありませんが、魚影の濃い川です。ただ、近年県外からの釣り客が増え、雪解け後の川から根こそぎ魚を獲っていくことがまま有るようなので、、旭川も入漁料を取り、禁漁期間を設け取締りをし、稚魚の放流も進めるべきです。
私が小学生くらいの頃に、父とよく通ったのは仁別国民の森です。最上流部では有りませんが、淵の水は碧に澄み、如何にも大物が潜んでいそうな雰囲気です。父はルアーで堰堤の落ち込みを狙っていました。白州の尾白川渓谷には行ったことは無く写真で見ただけですが、似たような雰囲気でしょう。小学校の遠足コースの定番であったり、夏場には市内から観光客が来て水遊びを楽しむ場所でもありましたが、今は訪れる人も少なくなっているかも知れません。
岩見川は、太平山の裏を流れ雄物川に合流する全長50〜60km程の清流です。県都秋田市に近いのですが、三内から上流は、どの支流も上流に行くに従って秘境、仙境の風情漂う渓流です。林道脇の水溜りに山椒魚がいたり、カモシカや野ウサギにも出会えます。殿渕という景勝地(禁漁)がありますが、橋から渕を覗くと、山女や岩魚が群泳している姿が見られます。
それぞれ林道が川のそばをかなり奥まで通っています(本来田沢湖や阿仁に抜けているのですが、私が最後に行った25年前頃は掛け崩れでいずれも不通でした。)。父と釣行した頃は、林道から蛇行した深みを覗くとつがい?の尺上岩魚がゆうゆうと泳いでいました。こちらは確か入漁料を取っていたと思います。書いている通り上流域で岩魚釣りが主でした。
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2009年02月20日

独白 フィリピンパブと彼女と家族

彼女と出会ったフィリピンパブは、池袋のロサ会館の地下の「アニーノ」(影の意味)と言うレストランシアターです。今はもう在りません。
福岡から来た研修生と懇親会をしようと、ロマンス通りをうろついていてたまたま見付けて入りました。当時はフィリピンパブが全盛期でどこに行ってもありました。池袋と上野、錦糸町は、今でもフィリピンパブか多い繁華街です。
「アニーノ」はレストランシアターと言うだけあって、ステージが広くカーテン付きで照明、音響等当たり前完備、もしかすると元は日本人のキャバレーだったかも知れません。
ハイスクール出立てでタレントとして出稼ぎに来ていた彼女は小さく華奢で可愛いらしかったです(#^.^#)。今でこそナイスバディを通り越してエロい体になってしまいましたが(それはそれで歓迎する経年変化ではありますが)…。ダンスが上手く、ショータイムのステージではいつもセンターで踊っていました。
そんなでしたから、初めの内は週一回以上通っていました。メニューはキャバレーのそれと変わり無いと思います。食べ物の中ではフルーツ盛り合わせが15,000円と一番高かったでしょうか。
後、定番はビンゴ大会ですね。カード一枚1,000円でこれまた余計な出費でした。
許す範囲(最終的には積もり積もってオーバーフロー)で、乞われるままに香水やジュエリーもプレゼントしていました。
計算したことはありませんが、総額では郊外のマンション一戸分位になったかも知れません。
今では、「何も買ってくれない。」と詰られますが、未だにに結婚してない以上、別に文句を言われる筋合いはありません。
彼女の家はケソン郊外にあり、結構大きく庭も広くはありませんがしつらえてあり立派です。今まで5回ほど行きました。その都度さらに大散財です。近所や親戚中では中流家庭で通っているみたいです。私は決してそうは思いません。
家族も多いです、否、多すぎます。両親、兄家族、姉家族、メイド?、含めると20人位はいる筈です。今ではさらに兄の子供達にまで子供が出来ました。そのくせ働いているのは彼女と姉の二人だけですから、到底足りず何時もギリギリです。幾ら物価が安く日本の稼ぎが良いと言っても物には限度というものがあります。
お陰で私も少なからず影響を受けています。入籍しないのも少し関わりがあります。
このような逆境の中、長すぎる関係がよくも続いているものだと、我ながら不思議に思う位です。
でもこの不況でさすがにもう危ないかも…。
そうなったらそうなった時のことです。努力はしますが、もう無理はしません。
母親にも随分迷惑を掛けました。
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独白 出会いと事件

足掛け10年いた上場総合物流企業に入って翌年、仲間内で最寄りの池袋(その頃は板橋の借上げ社宅に居ました。)のフィリピンパブに行き、彼女と出会いました。当時まだ、19歳で小学生のようなプロポーションでしたが、36歳の今はナイスバディを通過しつつあります。
入れ上げ方は、給料の範囲内でしたが、その内クレジットカード、大手サラ金とエスカレートし、件数も増え、退職一年前に何を思ったかマンションを購入、退職二、三ヶ月前から自転車操業、どうにも首が回らなくなり、任意売却他で弁護士と裁判所にの手を煩わせることになります。
当然慚愧の念に堪えず会社は退職し、退職金にて狭山へ都落ちし、裁判所の手続きが終わるまでアルバイトで食いつなぎました。
夏頃に手続きが完了すると、再就職活動を始め、11月に現ハイヤー業界のH車に再就職しました。
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独白 転職また転職、ちょっと達成感

秋田のアートを、正社員になって僅か4ヶ月で辞めてから、運送、引越会社の転職を繰り返すことになります。
「引越を極める」と言う目標を目指しつつキャリアアップを図る、と言えば聞こえは良いですが、要するに、ちょっと気に入らないことがあると、「引越を極める」環境ではないとして会社を代わるための口実でした。
八戸本社の大手貨物運送会社、丸井のグループ会社、鳩のマーク、クロネコ、アート再入社、上場総合物流会社。どれも半年か1年の御奉公でした。
が、最後の上場物流会社の引越部門では、現場から本社営業まで足掛け10年勤め、引越のみならず事務所や倉庫の移転作業の見積、現場管理、クレームや事故処理、保険処理まで経験出来、実りが多かったです。実は、その会社は元々引越部門が無く、ノウハウは、自分の経験の蓄積とそこで新たに手掛けた案件から学んだものの集大成で、実際マニュアルを作成し、今でもMOディスクに残っています。但し、当時使用していたモバイルノート(Win98)が死んでいるため、最近ファイルを開いたことは無いです。引越と移転作業に関して学んだ総ての要素が入っており、今でも活用出来る内容だと自負しています。
例えば、リターナブルな食器梱包材でオリコンやエアーロック、移転時の青ベニ、PCケースなどです。前者は経費面で却下されましたが、後者の青ベニ(床養生材)は導入され、PCケースは初め段ボールで作り普及しました。結構パイオニアだった筈です。
ある事件が無かったら、今でも勤めていたかも知れません。
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独白 大学生活追記

どの大学でもほぼ同様でしょうが、1、2年は一般教養で、3、4年は専門課程の講義が中心となります。総じて前半は皆比較的真面目に、コツコツと単位を取ります。後半に余計な苦労はしたく無いからです。
私も、麻雀、パチンコ、飲み会をこなし、時には代返も活用しつつも(回覧のフルネームのサインの方が主でした。)、比較的真面目に単位を積み重ねていました。
その他、3年までは自転車同好会に入り、仲間と林道を走ったり、泊まりがけで長距離を走ったりしました。最長は単独日帰りで秋田県1/4周でした。秋田市からR285で大館市まで行き鹿角市から玉川温泉、鶴の湯付近を抜け、田沢湖・角館経由、R46・R13を通り、秋田市戻りというコースでした。朝6時から19時頃までかかり、250〜60km位走った筈です。
当時の自転車(記事に有る遠藤ランドナー)は30年近く経つ今も現役で、たまに乗っては青梅路をポタリングしています。
同好会は、性懲りもなく参加した大学祭実行委員会との掛け持ちがばれて、会長の鉱山学部の上級生と喧嘩して辞めました。
大学祭は、医学部、看護学校、教育学部、鉱山学部とクロスオーバーした開催で、企画している実行委員会活動が一番面白かったです。
コンサートは「アルフィー」を招き盛況でした。自分が企画した討論会は、MCの自分の力不足で低調、不評に終わりました。
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2009年02月19日

独白 アルバイトから本業

秋田で教育学部の学生時代(一浪後)、失恋に端を発して、元々やっていた引越の現場アルバイトにのめり込み、両親の落胆も顧みずに中退してそのまま就職してしまいました。当時はアート引越センターと言いました。
0123のキャッチコピーに何故か惹かれたのです。
また、若く体力を持て余し気味でしたし、自分のそれこそ力と営業力(接遇という意味で)で、一つの現場を一貫して管理し、最終的に顧客の満足と報酬を得られるという業務内容にも魅力を感じました。
引越の作業は小物梱包(本、食器、衣類etc)から始まり、家具梱包、搬出口養生、トラックへの積み込み、引越し先(新居)への移動、搬入口養生、トラックからの荷下ろし、新居への搬入・セッティング(レイアウト)、家具解梱、小物解梱、使用済み梱包材の引取までが一連の流れになります。
原則搬出は、小物、家具、大型家電、布団袋、カーペット等、自転車等、植木等で、搬入は逆順になります。
搬入と収納、セッティングのやり易さが順番の基準です。
搬入の際は、お客様に玄関付近に立って頂き指示を受けて、復唱手渡ししたものです。今はレイアウト図を利用することも多いのではないでしょうか。
一つの引越現場を中心戦力かつ指揮する者を「チームリーダー」と言いました。作業服は継服でチームリーダーのそれは左胸に白地に赤のラインが入っているのです。当時はそれが憧れでした。始めはアルバイトで、次に現場社員、次に配車係、それからまた上へキャリアアップ出来るシステムが、既に確立されており、自分もそれを目指しました。
アルバイトは在学中三年余り、社員は中退後半年足らずでしたが、気心の知れたメンバーばかりで、同好会(今はサークルと言うのが一般的でしょうか?)楽しかった記憶しかありません。秋田の営業所は山形県の庄内をカバーしていたため、二、三名で行く日帰りの中距離仕事が多く、引越業務の前後がドライブ同然でした。馴染みのドライブイン(遊佐町の山形屋)で朝食を摂ったり、帰りにお茶をしたり、景色を眺めたりで、楽しみには事欠きませんでした。
アルバイト時代の後半は、母親の、父に対する愚痴が元で起きる喧嘩が嫌で、半年近く近所の先輩(アルバイトの)のアパートへ居候していた事もありました。しかし完全な独立ではなく、ちょくちょく夕飯を食べに帰ったり、洗濯をしに帰ったりしていました。それが目的というよりは、両親の喧嘩がエスカレートする事が心配だったからです。
その頃に直接試験場で冬の雪の坂道発進などをして免許を取りました。その後現場のチームリーダーとしての期間は短く、配車を担当してから社員になりました。
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独白 大学生活から中退

一浪後、晴れて地元の国立大学の教育学部、小学校課程国語学科に潜り込んだ私は、勉強そっちのけで、アルバイト、麻雀、パチンコ、飲み会(決してコンパではない)に明け暮れていました。勿論並の成績で必要な単位は取得していましたが、四年生の教育実習後の失恋(自分が飽きられた。)を境に道をそれ、中退してアルバイトだった引越業界を本業として目指し、八年前まで身を置く事になります。
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独白 エロの起源

私は、人並みに「エロ」です。日本語ては「助平」、ないし「性的関心が強い」です。
最初は、小学校四年生の時にカメラ好きの父親が購読していた写真雑誌の芸術的な写真でした。「かぐや姫」というタイトルで、砂の上で青黒い光に照らされた幻想的な女性のヌードです。ズキンと来たのです。別に何をしたということもなかったですが…。
いや待てよ、それ以前から女の子と遊ぶのは好きでした。転校生の女の子が来ると真っ先に話しかけて仲良しになり、次の日くらいには家に遊びに行っていました。しかし積極的で成功していたのはこの頃が早くもピークだったかも知れません。この後は、「エロ」の発達は年齢なりに人並みでしたが、実際の子アプローチは、今の長きに渡る彼女と付き合うまでは奥手になり、大した経験もありません。
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2009年02月18日

独白 「さがしい子」から凡才へ

高校に入るとさすがに県下一の進学校だけあり、成績は一年の前期にして既にクラスでビリから数えたほうが早いレベルとなり、それまで持っていたささやかなプライドは脆くも崩れ去りました。特に理数系が不出来で、数T、UBなどは数学教諭に、新しい定理を発見したなどと揶揄され、赤っ恥を掻きました。それでも国語、日本史、世界史、地理A、地学などの暗記科目は、過去の実力の残りで何とか人並みの成績を保っていました。
勉強はこんな調子でしたから、面白さを感じてどんどん上を目指すと言うことは全く無くなり、暗記科目の成績維持と、数学、物理、化学で赤点を取らぬようにするのが精一杯でした。
高校の授業では、体育の時間が一番生き生きしていました。二コマ(3、4時限)通しで自由な種目をチームを組んでやらせてくれました。あるもの達はバレーボール。あるもの達はバスケットボール。私は同好の士とバドミントンを選択して毎授業試合をして腕を磨き有っていました。実際かなり本格的でロールオーバーショットやロブショット、スマッシュ、ヘアピンショット、バックハンドなど、対外試合も出来そうなレベルだったと思います。事実竹馬の友のHも私が校外でバドミントンに引き入れたのですが、私が不在の時に彼がたまたま公民館でシャトルの壁打ちをしていると、あまりのショットの良さにヨネクラ(現ヨネックス)の関係者に声を掛けられたそうです。
漫然として高校生活を送り、二年の秋に何故か文化祭の実行委員長になり(雑務が多く不人気で手を上げればやれた。)、一応例年通りの催し事を無事にやりおおせたものの、当時の担任で演劇部の顧問の恩師の一人からは「貴様は今までの伝統を断ち切ってしまった。」と最低の評価を受けました。確かに誉められるような内容は一つも有りませんでした。
そうこうしている内に三年になりとうとう大学受験です。同級生は東大、北大、東北大、新潟大、六大学を目指す中、私は安易に隣の大学を目指しました。当然必死にやらなくとも楽に受かると思ったのです。共通一時試験にて小学校課程国語科を受けたものの結果は不合格、一浪して市内唯一の予備校に通う破目になりました。両親には余分な出費(三十万円)をさせて申し訳なかったです。次は無いと理数科目以外を必死で頑張り、翌年は何とか合格しました。国語と英語、日本史だけは万全の自信が有り、それだけでほぼ受かった筈です。国語は新聞で答え合わせをしたら一問だけ不正解で、200点中198点でした。これだけは唯一の自慢ですが、だったら満点取っとけという話です。
posted by 碌 at 23:01| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 随想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする